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天碧の果て

天碧の果て

レイテ沖海戦(上)

レイテ沖海戦(レイテおきかいせん)とは、第二次世界大戦中の1944年10月にフィリピン・レイテ島沖で行われた、日本海軍とアメリカ海軍との戦闘のことを示す。比島沖海戦ともいう。シブヤン海海戦、スリガオ海峡海戦、エンガノ岬沖海戦、サマール沖海戦の4つの海戦からなる。日本側の作戦名は「捷一号作戦」。アメリカ軍によるフィリピン奪還作戦(マスケティーア作戦)の阻止を目的として行われた。日本海軍はこの海戦を最後に、組織的抵抗を終えたとも言える。また、この海戦で神風特別攻撃隊による攻撃がはじめて行われた。 両国海軍がほとんど全力をあげて戦ったため、史上最大の海戦としても有名である。



背景
1944年6月のマリアナ沖海戦で敗北しマリアナ諸島を失陥した日本軍は、次なる防衛作戦として捷一号から捷四号作戦を立案した。このうち、フィリピン方面の防衛作戦は、捷一号作戦として立案されていた。日本軍にとって、フィリピンを奪還されることは、本土と南方資源地帯の連絡が途絶されることであり、戦争の敗北に大きく繋がるものであった。

マリアナ諸島を占領したアメリカ軍は、マッカーサーの構想の基、ペリリュー島、ヤップ、タラウド諸島などの次の目標とし、そこを拠点にしてフィリピン奪回作戦(マスケティーア作戦)を行う予定であった。特にマッカーサーは、軍事的理由の他に、フィリピンが元アメリカの植民地であり、自身の前職がフィリピン軍元帥であったことから、フィリピン奪回に大きな努力を払っていた。なお、彼が父親の代よりこのフィリピンの利権を多く握っており、マッカーサー王国などと揶揄される状態であったことも留意しておかなければならない。

9月15日、アメリカ軍はモロタイ島、ペリリュー島へ上陸した(ペリリューの戦い)。17日にはアンガウルに上陸した(アンガウルの戦い)。第3艦隊(ハルゼー大将)の空母機動部隊である第38任務部隊(ミッチャー中将、4群からなり空母17隻基幹)はペリリュー、モロタイ上陸作戦を支援した後、小笠原諸島やヤップを空襲し、9月9日、10日にはフィリピンのミンダナオ島を空襲した。11日からはハルゼー大将が直接指揮し、22日までフィリピン各地を攻撃し日本軍に大打撃を与えた。日本軍は激化するフィリピンへのアメリカ軍の攻撃からアメリカ軍がフィリピンに侵攻するのは間違いないと判断した。




作戦計画
日本軍
日本海軍の機動部隊がアメリカ軍第38任務部隊を北方に牽制し、基地航空部隊は第38任務部隊への攻撃を控え、フィリピン奪還を目的としたアメリカ軍輸送船団を撃滅する。また適宜、戦艦を中心とした水上砲撃部隊もアメリカ軍上陸地点に送り込み、輸送船団及び上陸した部隊を攻撃してフィリピン奪還を頓挫させる。

アメリカ軍
フィリピン奪回の手始めとして、レイテ島に上陸、これを奪還する。陸軍部隊は上陸時に最も脆弱となるので、ハルゼー大将の第3艦隊とキンケイド中将の第7艦隊がこれを援護する。




台湾沖航空戦
アメリカ軍はフィリピン攻撃後、パラオ作戦の支援に第4群を残して第38任務部隊の残りの3群は一旦後退した。10月7日マリアナ諸島の西で合流した第38任務部隊はフィリピン奪回の陽動攻撃の意味も込めて10日に南西諸島を空襲、12日から14日には台湾を空襲した。日本軍の基地航空部隊はこれに応戦し、アメリカ軍に多大な損害を与えたものと判断したが、実際はアメリカ軍はほとんど損害を受けておらず、日本の航空戦力が消耗しただけに終わった。ただし、この時の戦果誤認が、後の日本軍の艦隊総出撃という積極的な行動要因の一つとなる。





作戦発動
連合艦隊司令部は台湾沖航空戦の大戦果を信じ、基地航空部隊にアメリカ軍空母機動部隊の攻撃を命じ、小沢治三郎中将指揮下空母航空隊も基地航空部隊の指揮下に移して沖縄へ展開。 また、アメリカ軍機動部隊の損傷した残存空母を掃討するために、小沢中将の指揮下にあった志摩清英中将の第二遊撃部隊(第五艦隊)が出撃したものの、戦果誤報にともない任務中止、奄美大島へ退避中に台湾の馬公に向かうように指示され、南西方面艦隊の指揮下に移った。

9月のフィリピン空襲と10月の南西諸島・台湾空襲、台湾沖航空戦で基地航空部隊、特に第一航空艦隊が壊滅的打撃をうけ、小沢機動部隊の艦載機も投入してしまった。さらに、台湾沖航空戦の直後にアメリカ軍の上陸作戦が始まり、作戦の見直しや修正を行う余裕がなくなった。アメリカ軍機動部隊が防御する輸送船団に対し、戦艦部隊が航空支援なしに突っ込むなど自殺行為に等しい。苦肉の策として小沢艦隊を囮にして、アメリカ軍のハルゼー大将率いる第38任務部隊を水上砲撃部隊から引き離し、その間にレイテ湾に突入する。また、水上砲撃部隊は、レイテ島に南北からタイミングを合わせて接近し、同時に別方向からアメリカ軍輸送船団に攻撃を行う。




海戦の推移

アメリカ軍のレイテ島上陸により生起した4つの海戦の場所。以下の4つを総称してレイテ沖海戦という。1.シブヤン海海戦 2.スリガオ海峡海戦 3.エンガノ岬沖海戦 4.サマール沖海戦
1944年10月 海戦前
10月11日
アメリカ軍上陸部隊、ニューギニア各地を出発。

10月12日から16日
台湾沖航空戦(上述)。

10月17日
アメリカ軍レイテ湾のスルアン島に上陸。日本軍は捷一号作戦発動。

10月18日
栗田健男中将指揮の日本軍第一遊撃部隊(戦艦7隻基幹)がリンガ泊地出撃。

10月19日
小沢中将指揮の日本軍第三艦隊(航空母艦瑞鶴 、千歳 、千代田 、瑞鳳 、戦艦伊勢、日向、軽巡洋艦多摩、五十鈴、大淀、駆逐艦8隻 通称:小沢機動部隊)が瀬戸内海を出撃。

10月20日
日本軍第一遊撃部隊ブルネイ着、燃料を補給。

10月21日
日本軍第二遊撃部隊(重巡洋艦那智、足柄、軽巡洋艦阿武隈、駆逐艦7隻 通称:志摩艦隊)が馬公を出撃。フィリピン、ルソン島マニラへ向かう。

10月22日
日本軍第一遊撃部隊第一部隊・第二部隊(戦艦大和、武蔵、長門、金剛、榛名、重巡洋艦愛宕、高雄、摩耶、鳥海、妙高、羽黒、熊野、鈴谷、利根、筑摩、軽巡洋艦能代、矢矧、駆逐艦15隻 通称:栗田艦隊)がブルネイを出撃。シブヤン海を通過するコースを取る。 遅れて日本軍第一遊撃部隊第三部隊(戦艦扶桑、山城、重巡洋艦最上、駆逐艦4隻 通称:西村艦隊)がブルネイを出撃。スリガオ海峡を通過するコースを取る。 また、志摩艦隊もスリガオ海峡コースでレイテ湾突入が決定、マニラ寄港を中止。補給のためパナイ島西岸コロン湾へ向かう。

10月23日
1時16分、パラワン水道を航行中の栗田艦隊をアメリカ海軍潜水艦ダーター(USS Darter, SS-227)がレーダーで発見した。ダーターはこれを報告すると共に艦隊に接近し6時32分栗田艦隊旗艦の重巡洋艦愛宕に対し艦首発射管から魚雷6本を発射、それから急旋回して重巡洋艦高雄に対し艦尾発射管から魚雷4本を発射した。愛宕には魚雷4本が命中し6時53分に沈没した。愛宕被雷の1分後、高雄に魚雷2本が命中した。高雄は大破し駆逐艦朝霜と水雷艇鵯に護衛されブルネイに後退した。6時57分、今度は重巡洋艦摩耶に潜水艦デース(USS Dace, SS-247)の放った魚雷4本が命中した。摩耶は7時8分に沈没した。栗田中将は旗艦を戦艦大和に移しレイテ湾に向かって進撃を続けた。 志摩艦隊コロン湾着。油槽船を発見できず、巡洋艦から駆逐艦に燃料を送る。

10月24日
24日未明、志摩艦隊コロン湾を出撃。レイテ湾へ向かう。同日、潜水艦ダーターが帰途途中で座礁、放棄される。




10月24日 シブヤン海海戦
シブヤン海に差し掛かった栗田艦隊は24日8時過ぎアメリカ軍第38任務部隊に発見された。この時第38任務部隊は第2群(ボーガン少将、空母イントレピッド、バンカーヒル、ハンコック、キャボット、インディペンデンス他)がサンベルナルジノ海峡付近に、第3群(シャーマン少将、空母エセックス、レキシントン、プリンストン、ラングレイ他)がルソン島の東に、第4群(デーヴィソン少将、フランクリン、エンタープライズ、ベローウッド、サンジャシント)がレイテ島付近にいた。また、第1群(マッケーン中将、空母ワスプ、ホーネット、モンテレイ、カウペンス他)はウルシー環礁で補給中だった。ハルゼー大将は第2,3,4群の3個群を集結させて栗田艦隊に対し攻撃を開始した。10時26分、第2群の空母イントレピッド、キャボットからの第1次攻撃隊45機が攻撃を開始し、武蔵と妙高に魚雷1本が命中した。妙高は速度が12ノットに低下し離脱した。12時6分、イントレピッドからの第2次攻撃隊31機が攻撃を開始し、武蔵に魚雷3本、爆弾2発が命中した。この攻撃で武蔵の速度は22ノットに低下した。13時30分、ミッチャー中将直率第3群の空母レキシントン、エセックスからの第3次攻撃隊44機が武蔵に攻撃を集中し魚雷5本、爆弾4発を命中させた。また、大和にも爆弾1発が命中した。武蔵の速度は16ノットに低下した。14時30分、第4群の空母フランクリンからの第4次攻撃隊32機が来襲し、大和に爆弾1発が命中した。14時59分、第2群及び第4群からの第5次攻撃隊67機が来襲。攻撃は武蔵に集中し魚雷11本、爆弾10発が命中した。他に長門と利根に爆弾2発、駆逐艦清霜に爆弾1発が命中した。15時30分、栗田艦隊は一時空襲圏外へ退避のため反転した。

栗田艦隊の援護のため、新たにフィリピンへ展開した日本海軍基地航空隊の第二航空艦隊は、第38任務部隊の第3群に航空攻撃を行った。9時30分、軽空母プリンストンは爆弾が1発命中し爆発炎上、その後軽巡洋艦リノの魚雷で処分された。また、ルソン島東方の小沢機動部隊は基地航空隊から知らされた第3群に偵察機を送って存在を確認、58機(電報では76機)を出撃させて攻撃し、基地航空隊も日没まで5回渡る攻撃隊を出撃したが有効な損害を与えることはできなかった。だが、基地航空隊と小沢機動部隊の波状攻撃は、第38任務部隊の一番北側に位置する第3群の北方への索敵を遅らせることに成功した。

24日夕方になり、栗田艦隊のサンベルナルジノ海峡強行突破を危惧したハルゼー大将は、第38任務部隊の3個群から高速戦艦(6隻中5隻)を中核とする水上砲撃部隊を引き抜いて第34任務部隊(リー中将)が編成予定であることを全軍に知らせて準備を進めていたが、栗田艦隊の反転を作戦不能なほど損害を与えたためと判断し、戦果報告と栗田艦隊が壊滅して撤退していることを報告した。また、間をおかずに小沢機動部隊を発見、これを日本軍の主力と判断し、栗田艦隊への攻撃を中止、小沢機動部隊攻撃のため、第34任務部隊を含む3個群を率いて北上した。

栗田艦隊は、アメリカ軍の空襲がやんだことにより、17時45分再度反転した。ハルゼー大将は再び栗田艦隊の残存艦(全艦損傷と報告された)がサンベルナルジノ海峡に迫っても第7艦隊が対処できると判断していたため、栗田艦隊反転の知らせがきても集結と北上を続けた。栗田艦隊はサンベルナルジノ海峡で待ち伏せに合うことなく通過し、レイテ湾を目指してサマール島西岸を南下した。

戦艦武蔵の生存者救助には駆逐艦清霜、島風、浜風があたり、20本の魚雷が命中した武蔵は19時35分沈没した。25日1時30分過ぎ、救助を終えた清霜と浜風の2艦はコロン湾へ撤退した。



10月25日未明 スリガオ海峡海戦
10月22日15時30分にブルネイを出撃した西村艦隊は23日、スールー海に入りスリガオ海峡へ向かった。24日、西村艦隊も第38任務部隊に発見され、9時30分ごろ約20機の空襲を受けたが、被害は2隻の小破にとどまる。

栗田艦隊と西村艦隊はほぼ同時にレイテ湾に突入する予定であったが、栗田艦隊が一時反転したことにより予定より遅れたので、西村祥治中将は西村艦隊単独でのレイテ湾突入を決断した。アメリカ軍第7艦隊司令長官のキンケイド中将は西村艦隊の接近を察知しオルデンドルフ少将指揮の戦艦部隊を迎撃に投入した。オルデンドルフ少将は西村艦隊のルート上、レイテ湾南方のスリガオ海峡で待ち伏せを行うことにした。その戦力は、戦艦メリーランド、ミシシッピ、テネシー、ペンシルヴァニア、ウエスト・ヴァージニア、カリフォルニア、重巡洋艦ルイスビル、ポートランド、ミネアポリス、オーストラリア、軽巡洋艦デンバー、コロンビア、フェニックス、ボイス、駆逐艦26隻、魚雷艇39隻と大きなものであった。

25日未明に、西村艦隊はスリガオ海峡に接近、1時48分北上を開始した。西村艦隊は魚雷艇の攻撃はかわしたものの、2時53分駆逐艦部隊に襲撃された。戦艦扶桑は魚雷4本を受け弾薬庫に引火大爆発・艦体が真っ二つに折れ沈没、駆逐艦山雲も轟沈し、駆逐艦満潮、朝雲も被雷し航行不能となった。また、戦艦山城にも魚雷1本が命中した。航行不能となった2隻の駆逐艦はその後撃沈された。西村艦隊は3隻になったが北上を続けた。

3時51分、アメリカ軍の巡洋艦が砲撃を開始して戦艦も後に続いて砲撃をはじめた。西村艦隊の旗艦の山城が真っ先に被弾し、最上もレーダーが役に立たたず砲撃の閃光を頼りに反撃したが、両艦とも大破炎上した。加えて山城は駆逐艦からの雷撃を受け4時19分沈没した。最後尾にいた駆逐艦時雨は反転離脱した。

西村艦隊は駆逐艦時雨を残し壊滅状態に陥り、西村祥治中将も戦死しレイテ湾への突入は失敗した。

後に続き突入する筈だった志摩艦隊は西村艦隊の2時間後にスリガオ海峡に到着した。この際魚雷艇の攻撃を受け軽巡阿武隈が被雷した。3時25分、志摩艦隊は戦闘序列で突入を開始したが、旗艦の那智が最上を炎上停止した敵艦と誤認して転舵、8ノットで動いていた最上と衝突した。敵情が不明であるのと味方の惨状をみて、突入を断念、海峡外で様子を見ることにして退避をはじめた。

4時10分、オルデンドルフ少将は同士討ちの報告を聞いて砲撃を中止させた。巡洋艦と駆逐艦は残敵の掃討と救助活動をするべく南下を開始した。

当初は多数が海面を漂っていた生存者だが、多くが米軍の救助を拒否して自決、また近くの島に上陸した少数の生存者も丸腰だったため殆どが原住民の襲撃により殺害され、生存者は沈没した全艦合わせて10数人だった。特に最初に大爆発を起こした戦艦扶桑は、艦長以下1637人全員が戦死し、生存者は1人もいなかった。

阿武隈の護衛に駆逐艦潮を派遣してマニラへ向かわせ、最上には駆逐艦曙を護衛にあたらせてコロン湾に避退するよう命じたが、最上はその後空襲を受け最終的に乗員の退艦後、曙の魚雷で処分され、翌日の11時28分、阿武隈もアメリカ陸軍機の空襲を受けて沈没した。志摩艦隊の本隊である、那智、足柄、霞、不知火は何度か空襲を受けたものの、損失艦なくコロン湾に到着した。不知火を栗田艦隊の駆逐艦早霜の救援に送ったが第38任務部隊の空襲で撃沈された。


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